戦後最後の花婿移民奮戦記

日本に生まれ、異国の地に渡り住んだ私のつたない思いをつづります。

雲のように生きたい…

吾輩は猫である風つぶや記(八月十八日編)

たけしん

八月十八日。主人は今朝、火曜日特有の「重苦しい平常運転」の顔をして寝床を脱した。週の初めの衝動的な絶望期を通り過ぎ、ただ黙々と日常の雑務をこなさねばならぬ火曜日は、人間にとってじっと首をすくめて耐える日らしい。玄関で見送る吾輩のしっぽの揺れに、少しは慰めを見出すが良い。


一、米の日と人間の「一粒への狂熱」

今日は「米」という漢字を分解すると「八十八」になることや、語呂合わせ(8・18)から、日本のどこぞの農業団体が定めた「米の日」だそうだ。

人間という生き物は、小さな白い粒を水とともに炊き上げ、「立ち上る湯気がたまらん」「甘みがある」などとありがたがって食しておる。


吾輩に言わせれば、実にちまちました主食である。一粒一粒を噛み締めて喜ぶ暇があるなら、骨のついた肉塊を豪快に噛み砕くか、新鮮な魚の切り身を一気に平らげる方が遥かに潔い。植物の種子を蒸して喜ぶ人間の味覚は、どうにも遠回りばかりしている。


二、高校野球記念日と人間の「白球への涙」

また、今日は一九一五年のこの日、第1回全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高校野球選手権大会)の開会式が行われたことにちなむ「高校野球記念日」でもあるという。


人間は、泥にまみれて球を追いかける若者たちの姿をテレビ越しに眺め、勝った負けたと一喜一憂し、果ては涙まで流しておる。

猫の「クールな自己完結」を見習うがいい。誰かに見せるためでも、栄冠を得るためでもなく、ただ己の狩猟本能の赴くままに走る。他人の青春に自分を重ね合わせて泣いておる人間の情念というやつは、どうにも暑苦しくていかん。


三、火曜の「夕暮れと風の抜け道」

十八日、火曜日の夕刻。西日が部屋の奥まで差し込み、廊下に心地よい風の抜け道ができた。帰宅した主人は、冷たいお茶を一口飲むと、そのまま風の通る廊下の板の間に身を投げ出した。


人間は、こうして一日の実務を終えると、まるで糸の切れた人形のように動かなくなる。吾輩は足音を立てずに近づき、倒れ伏す主人の頭のすぐ脇に座り込んだ。喉を「ゴロゴロ」と低く鳴らし、適度な振動を床から主人の頭部へと伝える。疲れ切った下僕の脳みそをほぐしてやる、猫の静かなる施しである。


猫の独り言

米の日だというなら、主人はその「一粒一粒を噛み締める丁寧さ」をもって、吾輩のカリカリを皿の真ん中に完璧な円錐形を描くように盛り付けるべきだ。

火曜の夜、下僕が果たすべき真の義務とは、テレビの前で他人の野球に熱狂することではなく、我が家の絶対君主たる吾輩の「カリカリという名の黄金粒」を絶やすことなく献上することにある。


人間がどれほど世俗の感動に涙しようとも、吾輩が満足の喉鳴らしを響かせ、悠然と毛繕いを始める姿こそが、我が家に真の平和と秩序をもたらすのだからね。

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吾輩は猫である風つぶや記(八月十九日編)

たけしん

八月十九日。主人は今朝、一週間の折り返し地点にあたる水曜日の朝を、何やら「ふう、まだ半分か……」という、溜息とも覚悟ともつかぬ呟きとともに迎えておった。人間という生き物は、一週間の真ん中に来ると、急にこれまでの疲労とこれからの残務を天秤にかけ、勝手に頭を抱え始める。まことに忙(せわ)しない性質(たち)よ。


一、バイクの日と人間の「鉄の馬への執着」

今日は「バ(8)イ(1)ク(9)」の語呂合わせから、日本の総務省などが交通事故防止のために定めた「バイクの日」だそうだ。


人間という生き物は、二つの車輪がついた鉄の塊に跨がり、爆音を響かせながら風を切って走ることに快感を覚えるらしい。


吾輩に言わせれば、実に物仰しい話である。風を感じたいのであれば、わざわざ危険な鉄の馬を操らなくとも、ベランダの柵の上に身を乗り出し、髭(ひげ)をかすめる夕風をじっと味わえばそれで十分ではないか。機械の力を借りねば疾走感すら味わえぬ人間の身体能力には、どうにも同情を禁じ得ん。


二、俳句の日と人間の「五七五への縮約癖」

また、今日は「ハ(8)イ(1)ク(9)」の語呂合わせから「俳句の日」でもあるという。


人間は、世の中のありとあらゆる風物や感情を「五・七・五」というわずか十七文字の型に押し込め、季語がどうの情趣がどうのと知恵を絞っておる。

猫の「無言の風流」を見習うがいい。言葉などで語らずとも、伸びやかな欠伸(あくび)ひとつ、あるいは優雅なしっぽの揺らめきひとつで、この世の真理や季節の移ろいを表現してみせる。型に頼らねば情景を描けぬ人間の文学など、猫の佇まいの前にはどこか不器用な手習いに見えてしまうな。


三、水曜の「中だるみと机上の占領」

十九日、水曜日の夜。主人は書斎の机に向かい、ノートパソコンの画面とにらめっこをしておったが、キーボードを叩く指先は次第に鈍くなり、やがて呆然と画面を見つめるだけとなった。折り返し地点特有の「集中力の途切れ」が、主人の脳内を支配し始めた証拠である。


吾輩は音もなく机の上に飛び乗ると、カチコチと音を立てるマウスの真上に、どっかと前足を乗せてやった。進まぬ作業に無理にしがみつく人間の愚行を、吾輩の物理的な介入をもって中断させてやる親切心である。主人は「こらこら」と苦笑いしながらも、脱力したように背もたれへ身体を預けた。


猫の独り言

俳句の日だというなら、主人はその「十七文字に情熱を注ぐ細やかさ」をもって、吾輩の飯皿へ完璧なバランスでカリカリを配置すべきだ。

「夏草や 皿のカリカリ 山となれ」——下僕たる主人が詠むべき句など、これ一つで十分である。


人間がどれほど鉄の馬で疾走しようと、あるいは五七五の句に思索を巡らせようと、我が家の絶対君主たる吾輩が満足げに舌を鳴らし、丸くなって眠りに就く姿こそが、我が家に平和と調和をもたらす最高の「季語」なのだからね。

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吾輩は猫である風つぶや記(八月十七日編)

たけしん

八月十七日。主人は今朝、月曜日という現実の重圧に押しつぶされそうな、実に哀れな「亡霊のようなおももと」でベッドから這い出てきた。せっかくの休日で蓄えた気力も、週の最初の朝を迎えた瞬間に一散してしまうらしい。時計の針に急かされるようにして出かけていく後ろ姿を見送りながら、吾輩は「気の毒に」と心の中で小さく欠伸(あくび)をしてやった。


一、パイナップルの日と人間の「刺々しい果実への執着」

今日は「パ(8)イ(1)ナ(7)ップル」の語呂合わせから、日本のどこぞの農園グループが定めた「パイナップルの日」だそうだ。


人間という生き物は、外側を硬く刺々しい皮で覆った果実を、包丁で格闘しながら切り開き、中の黄色い果肉を頬張っては「甘酸っぱくてトロピカルだ」と目を細めている。


吾輩に言わせれば、実に物好きな苦労である。食べるためにこれほどの武装を解除せねばならぬなど、食の効率としては甚だ疑問と言わざるを得ん。旨いものとは、手入れの行き届いた毛並みのように滑らかで、皿から直接舌で掬い取れるような潔さを持つべきなのだ。


二、プロ野球ナイター記念日と人間の「夜闇の狂熱」

また、今日は一九四八年のこの日、横浜の球場で日本初のプロ野球公式ナイター照明試合が行われたことにちなむ「プロ野球ナイター記念日」でもあるという。

人間は、日が落ちて暗くなった夜空の下、巨大な電球を何百個も灯して昼間のような眩しさを強引に作り出し、白球の行方に一喜一憂しておる。


猫の「夜行性の誇り」を見習うがいい。吾輩たちにとって、夜とは暗闇の中に瞳孔を大きく開き、月の光と気配だけで静かに世界を支配する時間である。わざわざ夜を昼に変えて大騒ぎする人間の暗闇嫌いには、どうにも浅ましさを禁じ得ん。


三、月曜の「帰還と沈黙の書斎」

十七日、月曜日の夜。会社という名の檻からようやく生還した主人は、カバンを床に放り出すと、エアコンの風が直接当たる床の上にペタリと座り込んだ。一週間の初日を乗り切った安堵感と、残り四日への途方もない徒労感が、その丸まった背中に色濃く滲み出ている。


言葉もなく冷たいお茶を啜る主人の横顔は、昼間の暑さと社会の荒波にもみくしゃにされた敗残兵のようだ。吾輩は足音を立てずに近づき、主人の膝の脇にすっと身を寄せると、尻尾の先で軽くその太ももを突いてやった。月曜の現実に打ちひしがれる人間に、我が家という絶対の聖域の存在を思い出させる、静かなる慈悲である。


猫の独り言

パイナップルの日だというなら、主人はその「トゲのある皮を切り拓く執念」を正しく発揮し、吾輩の缶詰の金属フタを一切の躊躇なく一気に引き剥がすべきだ。


週の始まりである月曜の夜、下僕が果たすべき最も崇高な義務とは、ナイター照明の球場を眺めることではなく、我が家の絶対君主たる吾輩の飯皿へ、最高級の「ほぐしササミ・マグロ添え」を速やかに盛り付けることに他ならない。


人間がどんなに仕事の疲労に打ちひしがれようとも、吾輩が満足げに舌鼓を打ち、おもむろに毛繕いを始める姿を見つめていれば、明日への気力など自ずと湧き上がってくるのだからね。

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