八月十三日。主人は今朝、木曜日の朝特有の「残された気力の計算」を頭の中で弾きながら、どこか覚悟を決めたような、あるいは単に開き直ったような表情で家を出て行った。週末という名の港まであと少し。人間という生き物は、目前に迫る休息の気配を頼りに、擦り減った体力を騙し騙し使って一日を凌ぐらしい。
一、怪談の日と人間の「自ら涼を求めて震える矛盾」
今日は一九四八年のこの日、怪談の語り手として名高い稲川淳二氏が誕生したことにちなみ、日本で「怪談の日」とされておるそうだ。
人間という生き物は、夏の暑さをしのぐために、わざわざ薄暗い部屋で怨霊や化け物の恐ろしい話を聴き、「ゾクッとした」「鳥肌が立った」と喜んでは涼をとる。
吾輩に言わせれば、実に不可解な自家発電の恐怖よ。背筋を冷やすために幽霊を呼び出すくらいなら、風通しの良い廊下の板の間に腹をぴったりと貼り付ければ済む話ではないか。目に見えぬ幻影に怯えて勝手に縮こまる人間の想像力というやつは、どうにも無駄なエネルギーの使い方をしている。
二、左利きの日と人間の「多数派の不自由な設計」
また、今日は「左利きの日(International Left-Handers Day)」でもあるという。右利き優先に作られた社会の道具や環境を見直し、左利きの権利や利便性を考える国際的な記念日らしい。
人間は、道具を使う手をどちらか一方に決めつけ、ハサミやドアノブの向きひとつで「使いにくい」「不公平だ」と議論を重ねる。
猫の「両前足の妙技」を見習うがいい。吾輩たちは右前足でも左前足でも、獲物を捕らえる時や猫パンチを繰り出す時にいささかの躊躇(ためらい)も生じぬ。どちらの手であっても完璧に使いこなすのが真の身体能力というものだ。道具の形に己の手を縛られている人間の不自由さには、同情を禁じ得ん。
三、木曜日の「夕闇の気配と小さな狩り」
十三日、木曜日の夜。主人が帰宅し、部屋の明かりを灯すと、窓辺の網戸に小さな羽虫が一匹、パチパチと音を立てて張り付いておった。一週間の疲労で肩を落としていた主人は、虫を見つけるや否や雑誌を丸めておっかなびっくり構えている。
実に腰の引けた滑稽な構えだ。吾輩は主人の前にすっと進み出ると、瞳孔を極限まで見開き、腰を低く落として獲物との距離を測った。次の瞬間、音もなく宙を舞い、鋭い右前足の一閃で見事に虫を叩き落としてみせた。疲れ切った人間を守り、我が家の安全を瞬時に取り戻す。主人が目を丸くして感心するのを横目に、吾輩は何食わぬ顔で前足をひと舐めしてやった。
猫の独り言
怪談の日だというなら、主人は背筋を凍らせる怪談話に興じる前に、目の前で「皿が空っぽであるという真の恐怖」に戦慄(わなな)くべきだ。
この木曜の夜、我が家の生態系の頂点たる吾輩の飯皿に一粒のカリカリも残っておらぬ事態こそ、いかなる化け物屋敷よりも恐るべき怪異である。
下僕たる主人が果たすべき最も神聖な義務とは、震える手で最高級のまぐろ缶を開け、山盛りのご馳走を速やかに捧げて吾輩の機嫌を取り結ぶこと。それさえ怠らなければ、今夜の我が家には祟りも災いもなく、極上の安らぎが約束されるのだからね。