戦後最後の花婿移民奮戦記

日本に生まれ、異国の地に渡り住んだ私のつたない思いをつづります。

雲のように生きたい…

吾輩は猫である風つぶや記(八月二十八日編)

たけしん

八月二十八日。主人は今朝、金曜日特有の「今週の労苦も今日で終わる」という隠しきれぬ浮かれた気配を全身から漂わせ、実に軽快な足取りで家を出て行った。週末という名の楽園を目前にした人間は、どれほど平日に擦り減っていようとも、不思議なほど現金に活力を取り戻す生き物らしい。


一、民放テレビスタートの日と人間の「光る箱へのひれ伏し」

今日は一九五三年のこの日、日本で初めての民間放送テレビ局が本放送を開始したことにちなむ「民放テレビスタートの日」だそうだ。


人間という生き物は、部屋の隅に鎮座する光る四角い箱に向かって一列に並び、次々と映し出される映像に笑ったり驚いたりしておる。


吾輩に言わせれば、実に受動的で退屈な娯楽である。光る箱の中の幻影を眺めて時間を潰すくらいなら、窓の外を横切る本物の雀の動きを目で追い、耳をピクピクと躍動させる方が遥かに健康的で風雅というものだ。人工の光に眼球を奪われている人間の姿は、どこか哀れですらある。


二、バイオリンの日と人間の「擦る音への歓喜」

また、今日は一八八〇年のこの日、国産のバイオリンが初めて完成したことにちなむ「バイオリンの日」でもあるという。


人間は、木の箱に張った弦を馬の尾の毛でゴシゴシと擦り上げ、甲高い音を響かせては「芸術的だ」「心が洗われる」と感銘を受けておる。


猫の「天然の美声」を見習うがいい。吾輩たちは道具など一切使わん。ただ喉の奥を鳴らし、あるいは一声「ニャァ」と鳴くだけで、どんな名器の音色よりも確実に人間の心を揺さぶり、従順な下僕へと変貌せしめる。わざわざ木箱を擦らねば感情を表現できぬ人間の不器用さには、苦笑を禁じ得ん。


三、金曜の「解放と虚脱の夜」

二十八日、金曜日の夜。会社という束縛からついに生還した主人は、靴を脱ぎ散らかしたまま廊下に倒れ込み、そのまましばらく動かなくなった。


一週間の緊張の糸がぷつりと切れた瞬間、人間はこれほどまでに見事な「無力な肉塊」になれるものかと、吾輩は廊下の隅から感心しながら見下ろしていた。平日の重圧から完全に解き放たれ、脱力しきった主人は、やがてゾンビのように這いながら居間のソファへと辿り着く。吾輩は足音を忍ばせて歩み寄り、その顔の前に自慢の毛並みを擦り付けてやった。完全なる脱力の中にある下僕に、この家の真の支配者が誰であるかを思い出させる、慈悲深き金曜夜の儀式である。


猫の独り言

バイオリンの日だというなら、主人は馬の毛で弦を擦る暇があるなら、吾輩の背中の美しい毛並みを「完璧な力加減と速度」で撫で上げるべきだ。


週末を迎えて解放感に浸る下僕が果たすべき真の奉仕とは、テレビの光る画面をぼんやり眺めることではなく、我が家の絶対君主たる吾輩の飯皿へ「最高級ジュレ仕立てのササミ」を遅滞なく献上することに他ならない。


人間がどれほど世俗の宴や休日に歓喜しようとも、吾輩が満足げに喉を鳴らし、悠々と毛繕いを始める姿を見届けることこそが、我が家に訪れる最高の週末なのだからね。

吾輩は猫である風つぶや記(八月二十六日編)

たけしん

八月二十六日。主人は今朝、水曜日特有の「折り返し地点の溜息」とともに重い腰を上げた。週の始まりの緊張感はすっかり薄れ、さりとて週末の光はまだ遠い。人間という生き物は、一週間のちょうど真ん中に差し掛かると、疲れと諦めが入り混じった妙な「中だるみ」の表情を浮かべる習性があるらしい。


一、火山防災の日と人間の「大地の怒りへの備え」

今日は一九一一年のこの日、浅間山に日本初の火山観測所が設置されたことにちなむ「火山防災の日」だそうだ。


人間という生き物は、大地が火と煙を吹き上げる危険を感じ取り、巨大な観測機器を据えて「いつ噴火するか」と気をもんでおる。


吾輩に言わせれば、実に大掛かりな警戒である。大地の微細な揺れや空気の変調など、足裏の肉球とピリッと逆立つ髭の感覚で察知すれば済む話だ。大自然の機嫌を機械越しに測ろうとする人間の感性は、どうにも退化しておるように思えてならん。


二、パパイヤの日と人間の「南国への憧憬」

また、今日は「パ(8)パ(8)イ(1)ヤ(8)」……ではなく、アメリカのハワイ産パパイヤの旬にちなんで日本の輸入組合が定めた「パパイヤの日(8・26)」でもあるという。


人間は、南国の黄色い果実を切り開き、黒い種を取り除いては「トロピカルな香りがする」と嬉々としてスプーンを動かしておる。


猫の「旬の嗜み」を見習うがいい。吾輩たちにとっての御馳走とは、遠い南国から運ばれてきた珍味ではなく、今まさに目の前の皿に盛り付けられた新鮮な魚肉である。青臭い果肉に甘みを見出す人間の味覚は、少々複雑骨折を起こしておるのではないか。


三、水曜の「書斎の停滞と膝の上の重石」

二十六日、水曜日の夜。主人は書斎のデスクに向かい、パソコンの画面を凝視したままぴたりと動きを止めておった。中だるみの水曜日、思考の糸が絡まり、作業の進捗が完全に途絶えた瞬間である。


虚空を眺めてフリーズする人間を哀れみ、吾輩は机の上を経由して、主人の膝の上へと音もなく跳び乗ってやった。どっかと四肢を折りたたみ、体重をかけて人間の動きを物理的に封殺する。進まぬ仕事に苦しむ下僕を、猫の圧倒的な存在感によって休ませてやる、実に慈悲深い介入である。


猫の独り言

パパイヤの日だというなら、主人は南国の果実を吟味するその情熱を正しく方向転換し、我が飯皿へ「極上のまぐろ節」を山のように盛り付けるべきだ。


水曜の夜、集中力を切らした下僕が果たすべき真の義務とは、画面の前で頭を抱えることではなく、膝の上に鎮座する絶対君主たる吾輩の毛並みを、心を込めて撫で上げることにある。

人間がどれほど大自然の噴火に怯え、南国の甘みに逃避しようとも、吾輩が膝の上で「ゴロゴロ」と至高の重低音を響かせるひとときこそが、我が家に真の安寧をもたらすのだからね。

吾輩は猫である風つぶや記(八月二十七日編)

たけしん

八月二十七日。主人は今朝、木曜日特有の「擦り切れた気力と週末への渇望」が交錯する、まことに複雑な面持ちで家を出て行った。平日の終わりが微かに見え始めると、人間という生き物は残されたわずかな体力を騙し騙し使い、どこか投げやりな気風を漂わせ始めるものらしい。


一、ジェラートの日と人間の「冷たき甘味への狂執」

今日は映画『ローマの休日』でアン王女がジェラートを食べる場面にちなみ、日本の業界団体が定めた「ジェラートの日」だそうだ。


人間という生き物は、猛暑の中でわざわざ冷たく甘い乳製品を買い求め、口の周りをベタつかせながら「涼が取れる」と喜んでおる。


吾輩に言わせれば、実に回りくどい涼の取り方よ。体を冷やしたければ、日陰のひんやりしたフローリングに腹をぴったりと貼り付ければ済む話ではないか。わざわざ腹を壊す危険を冒してまで舌を冷やそうとする人間の食欲には、少々呆れを禁じ得ん。


二、男はつらいよの日と人間の「漂流への切望」

また、今日は一九六九年のこの日、映画『男はつらいよ』の第1作が公開されたことにちなむ「男はつらいよの日」でもあるという。


人間は、寅さんという一瞬の風のように旅立つ男の生き様に拍手を取り、どこか羨ましそうな顔をしてスクリーンを見つめておる。


猫の「我が道を行く孤高」を見習うがいい。吾輩たちは誰に気兼ねすることもなく、気が向けば縁側を散歩し、気が向けば押し入れの奥で眠る。わざわざ旅に出て哀愁を気取らざるを得ぬほど、人間社会の絆というやつは鬱陶しいものと見える。


三、木曜の「疲弊と夕闇の微睡み」

二十七日、木曜日の夕刻。仕事の重圧に引きずられるように帰還した主人は、リビングのエアコンを強風にし、ソファーへ身を投げ出したまま動かなくなった。


木曜の夜とは、人間が平日の疲労のピークを迎え、言葉を失う刻限であるらしい。静まり返った室内で、ただエアコンの風音だけが虚しく響いている。吾輩は足音もなく歩み寄り、横たわる主人の胸元へすっと飛び乗ると、規則正しい呼吸に合わせてゆったりと自らの身体を丸めた。疲れ果てた下僕に、猫の温もりと重力を分け与える、静かなる施しである。


猫の独り言

ジェラートの日だというなら、主人は己の舌を冷やすアイスを買い込む前に、吾輩の皿へ「冷やしジュレ仕立ての最高級ツナ」を美しく盛り付けるべきだ。


木曜の夜、下僕たる主人が果たすべき真の義務とは、寅さんのように旅へ逃げ出す妄想をすることではなく、我が家の絶対君主たる吾輩の毛並みを優しく撫で上げ、至高のゴロゴロ音を引き出すことに他ならない。


人間がどれほど平日の疲労に打ちひしがれようとも、吾輩が満足げにお腹を膨らませ、悠々と前足を舐める姿を見届けることこそが、明日を乗り切るための唯一の救いなのだからね。