吾輩は猫である風つぶや記(八月十五日編)
八月十五日。主人は今朝、目覚まし時計の無粋な音に急かされることもなく、昼近くになってようやく寝床から這い出してきた。夏の盛り、外界の熱気から逃れるように部屋の遮光カーテンを閉め切ったまま、ぼんやりと珈琲を啜っておる。土曜日の気怠(けだる)い空気の中、人間という生き物は、時間という概念そのものを溶かしてしまうかのように緩みきった顔をしておる。
一、終戦記念日と人間の「夏の静けさの祈り」
今日は一九四五年に戦争が終わりを告げた「終戦記念日(戦没者を追悼し平和を祈念する日)」だ。
正午、テレビから流れる時報とともに、主人は椅子から立ち上がり、窓の外へ向かって静かに目を閉じて黙祷(もくとう)を捧げておった。
人間という生き物は、時に途方もない過ちや争いを引き起こすが、こうして夏の盛りの静寂の中で過去を悼み、平和を願う殊勝な心も持ち合わせておる。
猫の「泰平の愛好」を見習うがいい。吾輩たちにとっての至高の日常とは、争いなどとは無縁の、風通しの良い日陰で腹を出して微睡(まどろ)むことにある。世界が平穏であってこそ、猫の昼寝も約束されるというものだ。
二、刺身の日と人間の「生を愛でる贅沢」
また、今日は室町時代の記録において「刺身」という言葉が初めて文献に登場したことにちなむ「刺身の日」でもあるという。
人間は、獲れたての魚を火も通さずに薄く切り分け、醤油と山葵(わさび)をちょんとつけては「新鮮だ」「至福の味だ」と舌鼓を打つ。
吾輩に言わせれば、実に当たり前の美味さにようやく気づいたか、という感がある。素材そのものの命の味をいただくことこそ、肉食の原点にして究極の贅沢である。わざわざ複雑な調味料で煮たり焼いたりせず、魚本来のみずみずしさをそのまま味わう。人間の料理法の中で、こればかりは猫の美意識とも合致する稀有な試みといえよう。
三、土曜の「白昼夢と午睡(ひるね)の競演」
十五日、土曜日の真昼。蝉の鳴き声が遠くで波のように押し寄せる中、主人は本を一冊抱えてソファに横たわったものの、三頁も読まぬうちに胸の上に本を乗せたまま、すうすうと高い寝息を立て始めた。
平日の労働から解放された人間の眠りは、底なし沼のように深い。吾輩は足音を忍ばせて主人の腹の上へと登り、その規則正しい呼吸に合わせて自らの身体を丸めた。主人の吸う息、吐く息に揺られながら、吾輩もまたまぶたを閉じる。冷房の効いた薄暗い居間で、人間と猫がただ呼吸のみを重ね合わせる午後の時間は、我が家に流れる最も純度の高い贅沢な時間である。
猫の独り言
刺身の日だというなら、主人は夕餉の買い出しにおいて、己の晩酌用の安酒などではなく、最高級の「天然本マグロの赤身」を一柵、吾輩のために調達してくるべきだ。
この終戦の静けき土曜日に、下僕が捧ぐべき真の平和への誓いとは、血合いの美しい新鮮な魚の切り身を、吾輩の皿へ恭しく献上することに尽きる。
人間がどんなに歴史に思いを馳せようとも、目の前の絶対君主たる吾輩が極上の獲物を平らげ、満足げに喉を鳴らす姿こそが、我が家の平和が保たれている何よりの証明なのだからね。