戦後最後の花婿移民奮戦記

日本に生まれ、異国の地に渡り住んだ私のつたない思いをつづります。

雲のように生きたい…

2022年08月06日 土曜日 平和宣言

本日、広島に原爆が投下されて77年が経った。
もう、戦争を体験した人も高齢になり、年々、減っている。
そして、今回、広島市の平和公園で行われた平和記念式典で、
広島市の松井市長が平和宣言をした。


トルストイの言葉を引用して、


他人の不幸の上に自分の幸福を築いてはならない。
他人の幸福の中にこそ、自分の幸福もあるのだ。


この言葉を今一度、噛みしめるべきと訴えました。


ここで、『平和』とは、何かと問われたら、どのように答えるだろうか。
平和な世界を保つためには、軍備がなければ、無理だという結論に行きついてしまう。
それならば、平和な世界というのは、この世に存在しないことになる。
現に、戦争でない状態を築くためには、戦ってはいけないということになる。
でも、現実は、そうなってはいない。
それどころか、地域紛争が絶えない。


一番、平和だったというのは、縄文時代だったという。
争いもなく、平和に暮らしていた縄文人。


世界は、縄文のような平和な暮らしを現在、できないでいる。
世界は、科学が進歩し、何度となく革命を起こし、進んできた。
それにも関わらず、平和な幸せな暮らしができていないのは、なぜなのだろうか。


私には、不思議としか言いようがないのである。


やはり、人間は、崇高な生き物ではなく、野蛮な生き物だったのではないだろうか。
平和すら築けない人間たち。
それだったら、縄文のまんまでよかったんじゃないのかな。
教育に力を入れるのは、他国と競うあうためなのだろうか。争いに勝つためなのだろうか。
なんのための研究開発をしているのだろうか。
人工知能による政党まで出来上がった。
意思決定をすべて、人工知能にまかせるという。
人間自身で判断ができないのなら、縄文人と変わらないのではないか。


平和宣言は、だれでも、いつでも、何回もできる。
でも…
平和な世界を築くことは、誰もなしえない偉業なのであろうか。
そんなことを平和宣言を聞きながら、考えた。
もう、あれから、77年が経った。
人類の歴史から見れば、一瞬の出来事だ。
人類は、その一瞬でも、間違いを何回も繰り返し続けている。
人類というものは、間違いだらけに生きているのである、きっと…。

×

非ログインユーザーとして返信する